沢太郎左衛門~沢太郎左衛門~幕臣。開陽艦副艦長。蝦夷共和国開拓奉行。 長崎海軍伝習所を経てオランダに留学。 榎本と共に開陽で帰国 鳥羽伏見の戦いの敗北に江戸へ逃げ帰る慶喜を乗せて(脅されて?)榎本を置いて東帰。 旧幕艦隊と共に江戸脱走 幕臣沢太八郎の息子。 早くに蘭学を修め砲術にも精通していた。 安政3年に箱館奉行書物御用掛として初出仕。 翌年の第2回長崎海軍伝習生に選ばれ、万延元年には軍艦操練所教授方手伝出役となり海上砲術を教えた。 文久2年内田恒次郎、榎本釜次郎、赤松大三郎、西周助、伊東玄白、林研海、他9人らとともにオランダに留学。 砲術に秀でた沢は火薬製造を主に学んだが、どこの国も火薬の生成については極秘事項でそれを学び取ることは困難だった。 そこで沢は一計を案じベルギーの火薬製造所に工夫として入所し、働きながらその生成方を習得。 そしてつてを頼み火薬製造の機械も購入。 慶応3年完成した開陽丸に乗って帰国し軍艦役、軍艦頭並、開陽丸副艦長に至る。 翌年の鳥羽伏見の戦いの時大坂天保山沖に停泊中、前将軍徳川慶喜、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬が開陽に乗り込みすぐに江戸に向けて出帆せよと命令される。 この時司令官である軍艦奉行矢田掘鴻と開陽艦長の榎本は所用で上陸中。 艦隊の指揮権は全て沢に任せられていた。 沢はこの時旗艦である開陽の単独行動は艦隊の士気に関わり、延いては戦争の勝敗にも影響を及ぼすとこれを固辞。 しかし老中板倉勝静に押し切られる形で抜錨。 江戸に戻った沢は新政府軍の軍艦引渡しに反対し榎本らと共に江戸を脱走。 蝦夷地では開拓奉行として室蘭に赴任。 蝦夷地の開拓に従事する。 翌年五稜郭降伏を知り遅れること7日、5月25日室蘭の兵士も降伏。 榎本ら同様東京に送られ在獄。 明治5年に出獄後海軍兵学寮勤務となり、この後兵学大教授、兵学校教務副総理、海軍一等教官を歴任。 明治19年に辞職するまで海軍将校の育成に勤めた。 明治31年5月9日インフルエンザをこじらせて病没。 お墓は青山霊園にあり 沢はつねに戊辰の役での戦没者のことを忘れず、毎年円通寺で法要を行った。64歳 |